無償の遊戯性で生きる

 

そもそもホモサピエンスの祖先はアフリカの森では落ちこぼれでした。落ちこぼれだからこそ、森を出て2足歩行を獲得し両手が自由に使えるようになり、今の人類となりえたわけです。

ですので、落ちこぼれた時こそ進化のチャンスといえるでしょう。

こんばんは、『落ちこぼれが創る明るい未来の会』 代表のwatanabeです。

私は、これまでたくさんの挫折を経験してきました。そして、その経験を活かしてきたからこそ、カウンセリングやコーチングをするようになりました。

森の中では弱者であった類人猿が意を決して森の外へと出たから、その結果として2足歩行を手に入れホモサピエンスになれました。

私もたくさんの落ちこぼれ経験があったこそ、カウンセリングやコーチングといった2つの技術を手に入れることができたのです。

「無償の遊戯性」という気付き

カウンセリングやコーチングに必要不可欠なのが「気付き」です。そこで、本日は、先日見たテレビから得た気付き、「無償の遊戯性」について書いていきたいと思います。

先日、NHKの「英雄たちの選択」という番組で南方熊楠をテーマとして取り上げており、司会の磯田道史さんが「無償の遊戯性」という言葉を使っていました。

この「無償の遊戯性」とはどういうことかというと、『無目的にやりたいことをして生きる』ということでした。

番組の主人公である、南方熊楠は「無償の遊戯性で生きてきた人」であり、だからこそ彼は天才になれたといいます。

「無償の遊戯性」をもう少し詳しく説明するならば、お金や営利目的で何かをするというのではなく、「それがしたいからそれをする」といったことです。

例えば、恋に落ちるのに理由がないように、それがしたいと思うことに理由がないといった感じです。

理由は分からないけれど、それがしたくて、それをする。それをすることが好きで好きでたまらないからそれをする。あるいは、それが儲かるかどうかなど関係なく、ただただそれがしたいのでそれをする、といった感じ。

磯田さんは、「無償の遊戯性」をこう定義しています。

「これをしてお金を設けるとか、そう考えるのではなく、見返りを期待せず、楽しいから遊んでやっている状態」と。

このような「無償の遊戯性」で生きることこそ、人生を楽しむ秘訣なのではないかと番組を見ていて感じたのです。

無償の遊戯性は誰もが持っている

この「無償の遊戯性」、実は何も南方熊楠だけが持っていたということではなく、それはおそらくすべての人に備わっているものだと私は思っています。

人には必ず、「無償の遊戯性で生きられる芽」を持っているのだと思います。にも関わらず、その芽の存在に気付くことさえなく、多くの人が一生を終えてしまっているのではないでしょうか。

では、「無償の遊戯性」で生きた南方熊楠と我々一般人の違いは何なのでしょうか?

それは、きっと誰もが持っているはずの無償の遊戯性の芽の存在に気付き、それを育むことができたかどうかの違いなのかもしれません。

番組にコメンテーターとして出演していた元三重県知事の北川正恭さんは、こんなことを言っていました。

「現代社会は分業社会だから、深い思索は必要ない、それはかえって邪魔になる。だから、今の教育は平均点至上主義であり、その結果、このような教育形態の中からは熊楠のような人物は育たない」と。

つまり、深い思索を必要としない現代社会のシステムが、「無償の遊戯性」の芽を摘んでいるといっても過言ではないようです。

南方熊楠が育った当時の日本の風土は、彼のような「無償の遊戯性を持った人」を育む土壌があったとも北川さんは仰っていました。

では、この現代では「無償の遊戯性」で生きている人は全く皆無かというとそうでもありません。

番組の司会者である磯田道史さんは、別の番組でさかなクンのことを「無償の遊戯性の人」といっているようです。

さかなクンはただただ魚が好きで、それを追求していった結果、今の彼が存在しているといってもいいでしょう。

いろいろと調べてみると、さかなクンのご両親は、この「無償の遊戯性」を育む力を持っていたようで、そういった環境があったからこそさかなクンは、「無償の遊戯性」で生きることが可能となったのでしょう。

そう考えてみると、「無償の遊戯性」を育める環境にあるかどうかが、その人その人の将来に左右するといってもいいのかもしれません。

「無償の遊戯性」を思い出す

損得を考えず、好きな事をとことんすることで生きていけたのなら、それは素敵な事です。

しかしながら、今現在、損得勘定抜きに生きるのは難しい時代になっているのかもしれません。

では、どうすれば「無償の遊戯性」で生きることが可能となるのでしょうか?

そこで私が思うのは、まずは、自分が好きな事は何なのか、何をしているときに充実感を感じるのか、そういったことを、あらためて見直していく必要があるのだと思います。

損得勘定を抜きにして、やってみたいことは、きっと誰にでもあるはずです。

それが、今すぐに思い出せないのであれば、例えば、幼少の頃から現在に至るまで、「何をするのが楽しいのか、楽しかったか」などをとことん書き出して、その中から共通することをピックアップしていくと、「無償の遊戯性」の芽を見つけることが可能になるはずなのです。

また、いくつか上がった好きな事の中で、全く関係のないような内容な物事でも、実はそれらを深く掘り下げていくと、その根本要因が一緒だったりすることがあります。

例えば、料理が好きであるということと、絵を描くことが好きという、ことがあるかもしれません。その好きの理由を突き詰めて考えていった先に、「彩りを楽しむのが好き」といった共通の理由が出てくるかもしれません。この「彩りを楽しむ」ということが、あなたにとっての「無償の遊戯性」なのかもしれません。

もし「彩りを楽しむ」ということがあなたにとっての「無償の遊戯性」なのであれば、料理や絵を描くこと以外にもできることはきっとたくさんあるはずです。であるならば、あなたは、色々な方面で「彩りを楽しむ」ことをしていけばいいわけですし、「彩りを楽しむ」ということでいろいろな選択肢を見つけることも可能となるでしょう。

このようにして、自分自身に問いかけながら、探っていくことで見つけた好きこそが「無償の遊戯性の芽」となるといえるでしょう。

「無償の遊戯性」で生きるということ

南方熊楠は当時の東大予備門に入学しましたが、結果的に中退したという経緯があり、傍から見ると彼は落ちこぼれたかのようにも見えたりします。

しかし、南方にとっては、傍目とは裏腹に、挫折感など全くなかったようです。和歌山から東京へと上京した南方は、図書館にこもってひたすら本を読んでいたということですから、東大での勉強そっちのけで、図書館で「無償の遊戯性」を追及していたといっていいでしょう。

彼にとっては、東大を出ることで得る肩書よりも、今、まさに興味のあることをとことんするといった方が、優先順位が高かったのかもしれません。別な言い方をするならば、南方は、今この瞬間を生きていた、ということもできるでしょう。

誰かが作ったカリキュラムで勉強するよりも、自分の興味のあることにとことん没頭する。おそらく南方は、没頭している時、それはそれは楽しくて仕方なかったのではないでしょうか。

我々だって南方のように生きることができたなら、それは幸せ極まりないはずなのです。

もし、このブログをご覧になっている皆様のなかで、今現在、満たされぬ思いを持って生きているようでしたら、ご自身の中に存在しているはずの「無償の遊戯性」を探してみてはいかがでしょうか。

それが見つかったとき、きっと、これまでの人生が一変するかもしれません。

そうして、「無償の遊戯性」で生きることができた時、あなたは、もう落ちこぼれることはないでしょう。

なぜなら、「無償の遊戯性」で生きられることこそ、成功そのものなのですから。

本日のまとめ

無償の遊戯性で生きるには
① 「無償の遊戯性」とは、『無目的にやりたいことをして生きる』ということ。
② 「無償の遊戯性」の芽は誰もが持っていて、それを育んでいくことが大事
③ 「無償の遊戯性」で生きるためには、何をしているん時に充実感を感じるかを知る必要がある。
④ 「無償の遊戯性」で生きるということは、今ここを生きるということ。
⑤ 「無償の遊戯性」でいきっらると、人生の成功者となれる。

 

 

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